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「君たちはどう生きるか」という本の中で、主人公のコペル君が仲間を裏切ってしまい、それまで知らなかった自分の卑怯な一面を眼前に突きつけられて、自分はもう生きる価値の無い最低の人間なんだといって熱を出して塞ぎ込んでしまうシーンがあります。このコペル君という男の子は、本書の最初のシーンで、身の回りの生活用品や街を行き交う人々といった身近な社会現象の全てが、今自分が学校で習っている学問と結びついているのだという事に気づきます。そして、世の中の事をもっと良く知るためにも、より一層学問に励もうという高い志を抱くようになって、そんな自分が少し誇らしいと感じ始めていた矢先に、その裏切りの事件が起こってしまいます。コペル君は「卑怯者」という言葉や概念は知っていましたが、まさか、自分がその「卑怯者」であるとは思ってもみませんでした。そして、卑怯者の自分が、いくら偉そうに学問だなんだと言ってみても卑怯者の負け惜しみでしかない、つまり、自分がこの先やる事なす事全て意味の無い事であり、自分には生きる価値が無いのだ、となってしまったわけです。

このように、自分の醜い一面をまざまざと見せつけられる事によって、自分の矜持が奪い去られたり、存在価値が根底から否定される様な、まさに「痛恨の極み」といった出来事というのは、誰しも一度くらいは経験しているのではないかと思います。私の場合、それは大学時代の後輩の結婚パーティの帰り道で起きました。

結婚パーティが終わり、私は大学の同期・後輩たちと共に、二次会の店を探しながら渋谷の街をウロウロと歩いていました。すると、中年のおじさんがすれ違いざまに私に肩をぶつけて来て、てめえどこ見て歩いていやがる、と因縁をつけて来ました。私は、向こうからぶつかって来た事には触れずに、すみません、と言ってすぐに立ち去ろうとしましたが、おじさんはちょっと待てと言って私のシャツをグイと掴んで私を逃がそうとしません。そして、「おいてめえ調子乗ってんじゃねえか、謝れ、おいそうじゃねえだろ、もっと真面目に謝れ、てめえナメてんのかコラ、謝れっつったら土下座だろう普通、おい、土下座しろこのヤロウ、おめえ俺が誰だと思っていやがる、組の奴ら呼んでくるぞ、土下座しろ!」と言って私を恫喝して来ました。私は、この時点でもうすっかり恐れをなしてしまい、おじさんに言われるがまま、土下座をしました。すると、その様子を見ていた友人数名がなんだなんだと集まって来て、そのおじさんに突っかかっていき、その中の1人が、「俺は見ていたけれど俺の友人は何も悪いことはしていない、言いがかりをつけて来たのはそっちだろう、そこに警察があるから、言いたいことがあるならちょっと警察まで一緒に行こうじゃないか」という風に、勇敢に、そして理路整然とまくし立てて、小競り合いをしながら抗議しました。すると、そのおじさんは警察に行くのはちょっと具合が悪いという感じで急に弱気になって、結局すごすごと立ち去って行きました。遠巻きに一連の流れを見ていた同期の女の子達や後輩達が寄ってきて、大丈夫ですか?と、私に憐れみの声をかけました。穴があったら入りたいとはこの時のことを言うのでしょう。私は惨めで、そして自分という人間がいかに意気地なしの臆病者かを自覚させられ、半ベソをかきながらみんなの後について行きました。

この日の出来事を、私は事あるごとにふと思い出し、その度に消え入りたい様な気持ちにさせられます。私という小心者に比べて、あの勇敢にチンピラへ立ち向かっていった友人のなんと男らしい事か。この前女の子にフラれたのだって、そりゃああんな器量の良い子が俺の様な意気地なしなんかと付き合ってくれるはずがないじゃないか。俺の顔には、臆病者ですというレッテルがベッタリとへばり付いているのに違いない。あいつはどう見たって腰抜けのフニャチン野郎だと、誰が見ても一目瞭然なんでしょう。ああいう子は、私を助けてくれたあの勇敢な男と付き合うのが当然だし、そうでなければいけない。ああ良かった!あの子が私の腑抜けを見破ってくれて、本当に良かった!私にしてみたって、自分の腑抜けのせいで相手の女性まで貶めてしまうなんて事は、絶対に避けたいと思っているのですから。